murasehisariの写真屋さん日記

学校アルバムの仕事をメインに街の写真屋さんでお仕事してるmurasehisariの日々是徒然日記です

「見る」と「聴く」の関係

以前から補聴器を使っていただいているお客様で、先日新しくシーメンスのライフシリーズで両耳作製してくださった方がメンテナンスにいらっしゃったときにお話いただいたことです。
自宅で子供(お孫さん)たちと一緒にテレビを見ているときは、大体テレビの音量は中くらい、そのテレビの機種にもよるんでしょうが音のレベル表示で12くらいで聞いているけれど、そのときには補聴器を使っているので何とか聞こえるし子供たちとも話しをしながらなので、画面を見て、音を聞いて、その内容を話すので割合とテレビの内容を覚えている。しかし、ひとりになってテレビを見るときには補聴器を外しているので音量はレベル25くらい、近視のメガネをいつもはしているけれど横になってみるのでいつも以上に近寄って、それでもぼやけている画面を見ながら大きな音で聞いている。夜にリラックスして見るテレビ番組なのでさほど覚えていなくてもいいようなものだけれど、でも昼間に子供たちと見るときに比べるとその内容を覚えていないことが多い。なんでだろうね、と仰るんですけど、そうですねぇ、と一緒に考えてみました。
まず、情報量の違いだとは思うんですね。テレビを見ているときのものの見え方が、はっきりしているときとぼやけているときでは、見ているものの明確さが当然違いますし、ずっと静止しているものを見ているならまだしも、テレビですから、どんどん画面が変わっていくのでぼやけてるところをなんだろうと考えているうちに、すなわちなんだったのかがわからないうちに次の画面に移っている、ということが起こってるわけですね。そうなると正確な情報が頭に入ってこないので内容が残らない、と言えると思います。
また、音の聞こえと言うのは視覚での刺激よりもより明確な「形」を持って入ってくることがあると思うんです。
音のついていない緑の森の映像があったとして、それがぼんやりしていたらただの緑の固まりでしかないのだけれど、そこに風の「サーッ」と流れる音や小鳥のさえずりなんかが入ってくると気持ちのよさそうな感じが立体として現れるんですね。または高速道路で車がびゅんびゅん走っている映像も、音がついていないと平面的に見えますが、そこに音がつくと近づいてくる車や遠ざかっていく車の速さ・スピード・緊迫感なんかが伝わってきて立体的になるのだと思います。
眼で見る刺激は情報の中のデータ的なもの、知的な部分であると言うのなら、耳で聞く刺激は感情的なもの、情的な部分であると言えると思います。
メガネや補聴器と言うのは、その刺激がよりよく入っていくための道具ですから、使う人の使いやすいように利用できればいいなぁと思います。そうして、刺激を得ることで脳や身体が「理解」したり「感動」したりするので覚えてる、になると思うんですね。
まぁ、そんなことを話しながら自分でもなるほどなぁ、と考えたりしてるんで、こうしたお話を頂くのは自分にとっての刺激と言うか勉強だなぁと思うのです。




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